ララバイ・キャリッジその弐

shokoza2006-11-01

昨日はハロウィーン。子供たちが仮装して、家々を回ってキャンデーをもらう日。大人も仮装パーティーをやったり、お店に入ると魔女やフランケンシュタインがレジに座っているような、楽しいお祭りの日である。ヴァーション島は、シアトル西からフェリーで10分。道教学院でも年二回ここで合宿をする風光明媚なところであるが、このヴァーション市の招聘でララバイ・キャリッジの公演がおこなわれた。今回は、目抜き通りをいっぱいに使い馬車とパフォーマーのパレードという形。夕方5時、いろんな格好をした親子連れでにぎわっているところへ繰り出すと、「君たちは、いったい誰?」と声がかかる。「私たちは、馬のダンサー。光の町からきました。」と、キャラクターになってお答えする。何背顔は真っ白こてこてに塗り、大きな馬の頭と一体化してるんだから、何を言ったって真実だ。こどもたちの驚きの表情,大人からは「なんて美しい」というほめ言葉。今回は、お客さんもずっと近くにいてそういうコミュニケーションが楽しかった。そして、道の真ん中で踊るという楽しさ。家を出る時ちょっと風邪気味であったのが、終了後すっかり良くなっているのに気づいてびっくりした。途中でアンプが故障して音楽が無くなったりのハプニングもあったが、心の中でワルツやタンゴを鳴らして踊り続ける。
私たちダンサーとすれ違うたびに、馬車馬がいなないたのも、おもしろいできごとだった。

ララバイ・キャリッジ その壱

shokoza2006-10-22

友人のアーティスト、ルシアの創作したパフォーマンス「ララバイ・キャリッジ」のデュヴァル公演が昨夜おこなわれた。シアトル郊外、車で40分。秋も深まって、広々した牧場に馬・牛がのんびり草を食むところどころに、目の覚めるような黄や朱の落葉樹がみえる。アーティストが多く住む町で、小さいダウンタウンながらカフェ・古本屋・古道具屋、みなセンスがいい。公演に先立つ2度のリハーサルは両日とも雨でだいぶぬれたが、当日は朝からすばらしいお天気になった。

宇宙のどこかにある「光の町」の住人たちが一夜地球を訪れ、子供たちには夢を、大人には童心をプレゼントする・・・というのがルシアのヴィジョン。真っ白な天蓋つきの大きなベッドを引いて、二台の馬車がゆっくりと公園の周りを行く。馬車には3人の「母たち」が乗っていて観客に御伽噺と子守唄をきかせる。公園の中では、時計の親子が「チック、タック、チックタック」等とつぶやきながらホームドラマを展開、私たち4人の馬のお母さんは乳母車を押してプロムナードをゆっくり下りたそがれ時に「夜を招くダンス」をするのだった。そのほか、いろいろなものが絡まった長い白いひげの「いびきおじさん」たち、宿無し鳥の親子。何もかも白ずくめである。馬は首のところに穴をあけた真っ白な馬の頭をかぶり、ヴィクトリア朝のドレス。頭は一メートル位あるので、「ぺリパーソナル・スペース」はぐっと広がる。ほかの人たちも豆電球入りの、奇妙な形の大きな帽子をかぶっている。これらがみんな、ルシアの創作なのである。

ガブリエル・フォーレチェロソナタで公園のあちこちから入場し、ルシアがいくつかララバイを歌ったあと、ピアソラのスローなタンゴで馬のダンス。つるべ落としで日が落ちる時に激しい馬のいななきのようなチェロの音を合図に速いテンポのタンゴになり馬が野生に帰ったギャロップで円を描いて走ると、夜が訪れた。乳母車の中には、ライトがついて明るいが、一歩先は闇。吐く息が白い。いつの間にか、霧が立ち込めてきている。ダンスのあとは今までどおり、プロムナードをいったりきたり。子供たちが、恐る恐る乳母車を除きに来る・・・中身はライトと、ぬいぐるみの熊ちゃんなのだが。その表情のかわいいこと。
 
ドビュッシーの月の光とともに、星たちが登場。張子の星が10メートルくらいの黒い棒の先について、黒子が担いで歩くのだが、この星がレースのテーブルかけでできているので、明かりがつくとまことに優雅できれい。母と一緒に作るのを手伝ったので、「あれと、あれが作ったやつだ・・・。」と感慨深くながめる。流れる霧の上を漂う星たち、その背後には、下から照らされて、黄金色した大きな木が一本。夢幻の世界にひきこまれてしまう。

2時間ほどでフィナーレとなり、馬車の後ろをみんなで「ブラームスの子守唄」を歌いながら歩いて退場するころにはとっぷりと暮れていた。

雨に降られっぱなしのリハーサル、何日もボランティアで衣装を縫ったり、ペンキを塗ったり。また本番まで振り付けも決まらず(音楽が決まってなかったので)ほとんどが即興だったことなど、結構大変だったが面白い経験だった。キャシー(マデン)先生がヴィクトリア朝の白いレースの寝巻きを着て、おかしな帽子をかぶって、メガホンで采配を振るっているなんて普段見られない姿も楽しかったし。それにしても35人のスタッフと、かなり神経のとがっているルシアと、その全体を取りまとめ動かして、かなり混沌としていたのを本番では形にしてしまった、キャシーの手腕に改めて脱帽した。

水泳事始

新しいことを習ってみたいのと、心拍数を上げるような運動というのをしていない上、あんまり歩いたりしない等の理由で、水泳を習うことにした。キャシーのクラスの同級生ディエゴ君が、水泳なら得意だし僕は太極拳を習いたい、ということで、さっそくトレードが成立。昨日はその第2日目であった。短大にいた時夏休みの遠泳に参加したりして、泳げないわけではないが、できるのは平泳ぎのみなので、クロールでプールの長いレーンをすいすいといったり来たりしてみたいというのがゴールである。私は、心臓と肺が強いほうではないし楽にゆっくりでいいから、とにかくすいすいで、お願いしますというとディエゴ君は、「泳ぐのも慣れれば歩くのと変わらないよ。」とおっしゃる。10年ぶりくらいで水に入り、耳や鼻に水が入るたびにパニくる現在地点ではちょっと想像しかねるけれども、とにかく指示に従って泳いでみる。右利きなので右腕のやっていることには自信がもてたが、左腕はなんとも頼りない感じ。ところが、「左腕のほうが、ちゃんと指示に従ってやっていますね。右は従っていません。」とのこと。右側は「ア、水をかくのね、それなら知ってるわ」とばかりに急いで「知っている」ことをやり、腕全部を使って伸ばすというところをすっとばしてしまっている。結果を急ぐあまり、経過中のプロセスをすっ飛ばしてしまう傾向のことを、アレクサンダーテクニークでは、エンドゲイニングといって戒めるのだが、まさしく正しい一例がここで発生している。それどころか、そのあとで新しい指示を受けて泳ぎなおすたびに、ゴーグルを付け忘れて、3回もディエゴに注意されてしまう。アレクサンダー氏のいう「エンドゲイニングの確信犯」になってしまった。
 今日アレクサンダー氏の文章を読んでいて、{大人になると生活が単調化する傾向にあるが、多くが「知っている」と過信することで意識的な成長(自分に内在する可能性)をとめてしまうところからくる}という内容にいきあたる。新しいことを習うとか、知っているとおもっていることでもまた読んだり調べてみると、ぜんぜん忘れていたりわかっていなかったり、また前とは別の解釈が生まれていたりするのを発見するのは、うれしい驚きである。そうしてみると、「知らない」事にはおわりがなく、無限の可能性がある。私のおっちょこちょい(習慣的な誤リ)というチャレンジにも面白い意義がある。
 昔、ドン・ウィードという先生がマージョリー・バーストウを語って、毎日のようにパンを焼くのに、毎回同じレシピにもかかわらず、同じクック・ブックを参照していた逸話を聞き、「何回かやったら、覚えるのに。効率悪いじゃん」と言う第一印象だった私。17年が経過してやっと今その意味がわかったような気がしている。

マッチ・ポイント

ワールドカップは、ファイナルだけ、テレビで見た。ケーブルのチャンネルを買っていないので、映らないとばかりおもっていたら、メキシコチャンネルでやっていた。スペイン語はさっぱりわからないが、それだけに面白い。CMなんかも、アメリカ商品の宣伝なのに、なんとなくはちゃめちゃで、見られる。アナウンサーも、ゴールするたびに、遠吠えのようにわめいたり、感情がこもっている。そして、このファイナルの面白かったこと、無類であった。いつか息子に、サッカーはかなり芝居がかってる、ときいたことがあったが、時間稼ぎのためのファウル・プレーというのをはじめて理解できた。ジダンくらいの選手になると、サッカーも偉いけど、役者としてもなかなかのものだ。頭突きにも意表をつかれたが、それより私の脳裏に焼きついているのは、後半で右肩を指差して「ファウルだぞ」と無言表示している、なんとも面憎い彼の表情だった。確かに、頭突きで退場なんてのは、スポーツマンシップに外れていて、不名誉なことだし無責任だよな、と私の第一印象もそういう視点で反応していた。彼が退場すると、それまで有機的な白い壁のように動いていたフランスチームの、その壁が揺らいだような感じがしたほどの存在。それが、だんだん、時間がたつにつれて、ジダンに同情してくる自分がいた。だいたい、フランスチームったって、ほとんどの人がアフリカ系みたいだし、フランスに虐げられてきたアルジェリアの長い歴史を考えると、あの頭突きが、なんらかのメッセージ?ともおもえてくる。夏目漱石の坊ちゃんのラストシーンなんかを、思い出してしまう。
 閑話休題。試合を見ていてしきりにおもったのは、ウッディ・アレンの新作「マッチ・ポイント」と言う映画のこと。CGなどとあまり縁のない彼のこの作品で二箇所、素敵な効果と思ったのは、テニスのマッチポイントでボールが、ネットの真上に急回転しながらとどまっているシーン。そして、事件の鍵となる投げられた指輪がテームズ河と公園の柵の上でやはり回転しつつとどまるシーンである。ゲームの勝敗、そして人間の一生を決めるこの一瞬、と言う考えが強く心を捉える。舞台は現代のロンドンなのに、テーマと言い役者と言い、古典的な香りのする映画でゆったり味わってみたものだが、上記のファイナルも、「マッチ・ポイント」そのもので、初めのゴールは枠に当たって内側に入り、PK戦では同じく枠に当たって外にそれてしまった。栄誉のゴールを決めた本人は退場・・・なんと言う皮肉さ。こんなに面白い、シアター=ゲームとしてのサッカーを見たのは始めてであった。アナウンサーが何を言ってるのかは、最後までちんぷんかんぷんのまま・・・。

すってんころりん

一月ほど前、友人宅で5段ほどの階段を踏み外し(カーペット敷きの上、スリッパで滑った)しりもちをついた。首がカックンとなったのを感じ、しばし寝そべって衝撃をゆるめた。友人宅の猫ちゃんが、心配そうに見に来てくれた。(こういうときの犬猫の存在は本当にありがたい。)ゆっくり起き上がって、たいした故障もないなとおもって帰宅したのだが、その後なんとなく調子が悪く、風邪で寝込んだ後、首の後ろが痛くなって、久しぶりにカイロにいくと、「頚椎の一番が、左に半インチずれてます」との事。軽いムチ打ちになってたのである。
 今回はボーっとしていてころんだんだけど、思い起こせば98年の夏、ランチタイムのウエイトレスをしていて、派手にすっころんだことがあった。その日は、知り合いがお客さんできてくれたのでなんとなくはしゃいでいたのか、リクエストのあった、「ガリ」を小皿に入れて右手に持ち急いでテーブルに向かうところで、水がこぼれていた床に気づかず滑って、すってんころりん。しかし、この時は、まるで受身をとったのと同じ、あっという間に天井を見ていた状態でしかもガリはこぼさず、手のひらの上。そして、本人もあっという間に起き上がってニコニコしていたので、周りのスタッフ・お客さんともに「だいじょうぶー?」と言うのも気味悪そうであった。考えてみると、ウェイトレスって特に忙しい時には自分の受け持ちテーブル、キッチンとかなり広い範囲に気を配って、ぺリパーソナルスペースが広がっているので、自分の使い方も自然と効率よくなる傾向にある。昔、ある古武道の先生から、現代で武術の訓練をしているのは、タクシーの運ちゃんとウエイターだ、と聞いたことがあるが、確かにぐるりに注意を払いつつ手元の仕事に集中するという意味でうなづける言葉だ。で、ちなみにこの時は、一切故障はなしであった。
 10年ほどやったウエイトレスをやめて丸三年になる。私にとって、「人生の大学」と言ってもいいくらいいろんなことを学んだ職場であり、つらいこと、楽しいこと、びっくりしたこと、いろいろあったが、すってんころりんは「ちょっと恥ずかしい、栄光の一瞬」だったんだなあと、今は思う。

peri personal space

私のアレクサンダーの師である、キャシー・マデン先生が去年あたりからよく使っている言葉だが、わたしもこれは、para personal spaceだとおもっていたのが、じつはperiであったことが、きのうわかった。ぺリは、周辺のと言う意味である。私たちの周りのスペース。自分の考え方によって、伸びたり縮んだりするスペースのことだ。スポーツや武道のプロ、舞台に上がる人パフォーマーと呼ばれる人は、これを欲しいだけ伸ばして使うらしく、それが、観客全てと場外までに影響するという。逆に、「ひとりになりたい」「ほっておいて」と言う時は、縮めて肌につけておくのだろう。東洋的にいうと、気をつかっているので、「気を大きく持つ」とか「気が小さい」あるいは、「気が知れない」「気もそぞろ」とか、peri personal spaceをあらわしてるような言葉は、実に多い。
 産業革命以前の世界では、王様とか、お殿様、なんて種族が、立派な冠をかぶってのし歩いていたわけだが、たとえば冠をかぶるだけでも、人はだいぶ気を使って「ただの自分」でいる時よりも冠の分だけPPSをひろげておかないといけなかっただろう。宇野千代さんは、朝起きると、「衣冠束帯、衣冠束帯」と唱えて、きちんと身じまいをして仕事にかかると、自宅で仕事をしていても一日引き締まった気持ちでいられる、と書いておられたが、気持ちひとつでどうにでも変わる、これもPPSのよい例だと思う。

 

道化師二人の無言劇

ベルギーからきた「オッキ・ドッキ」という二人組みピエロのパフォーマンスをみた。まず衣装がよい。昔ながらの白いピエロ服が、荒い木綿地でとくべつだぶだぶにつくられていて、かわいい。人生に疲れ果てたような、半分はげ、半分白髪のやせこけたおじさんピエロ(グレイの付け鼻)と、元気のあまってそうな体格のいい若者ピエロ(赤の付け鼻)の組み合わせもよい。小道具は、段ボール箱8個だけである。この箱を持ってきて積む行為をめぐって、いろいろすったもんだを、無言で繰り広げるが、始まってしばらくは、おじさんピエロが、いやいやそうにつまらなそうにやる、のがみょーに面白い。この出し物は、「シアトルチルドレンズフェスティバルの一部なので、観客はこどもづれが多く、ここらで退屈した幼児がうわ〜んとごねる。おじさんピエロは、花がさいたのをみるようにそっちをみて、ウワ〜んとちっさな声でまねる。それから、若い方も出てきて、活気づいてくるのだが、ふたりとも4歳以下の観客に大うけで、さっきないてたのもけらけら笑っている。見てるひとみんなが、彼らのさりげない注意の範囲内にふくまれているのがよくわかる。私の先生のキャシーが、うまいパフォーマーはその場で起こっていることを全て使うのよ、といつもいっているが、そのとおりのことが起こっていた。さて、せっかく二人で協力して積み上げた箱が、おじさんの不注意で崩れてしまう。若い方がおこって、わざとらしく大きなため息をつく。(こういうのを英語でpassive aggresiveという。受動的暴力というのか、昔から弱者の武器であるが、結構無意識に習慣的に使っていることも多い。)ため息をつくたびにどんどん背がちぢんでいってしまう。背中が半分におれまがったところで、相棒が、靴の先(ピエロの馬鹿でかい靴の)を何度か踏むと、踏むたびに空気を入れたようにまた背が伸びて、かれの気分もよくなるのだった。そして、同じようなことが起こり、またもため息とともに縮んだ彼は、今度は、自分で、自分の靴を踏んで、立ち直るのである。