水泳事始

新しいことを習ってみたいのと、心拍数を上げるような運動というのをしていない上、あんまり歩いたりしない等の理由で、水泳を習うことにした。キャシーのクラスの同級生ディエゴ君が、水泳なら得意だし僕は太極拳を習いたい、ということで、さっそくトレードが成立。昨日はその第2日目であった。短大にいた時夏休みの遠泳に参加したりして、泳げないわけではないが、できるのは平泳ぎのみなので、クロールでプールの長いレーンをすいすいといったり来たりしてみたいというのがゴールである。私は、心臓と肺が強いほうではないし楽にゆっくりでいいから、とにかくすいすいで、お願いしますというとディエゴ君は、「泳ぐのも慣れれば歩くのと変わらないよ。」とおっしゃる。10年ぶりくらいで水に入り、耳や鼻に水が入るたびにパニくる現在地点ではちょっと想像しかねるけれども、とにかく指示に従って泳いでみる。右利きなので右腕のやっていることには自信がもてたが、左腕はなんとも頼りない感じ。ところが、「左腕のほうが、ちゃんと指示に従ってやっていますね。右は従っていません。」とのこと。右側は「ア、水をかくのね、それなら知ってるわ」とばかりに急いで「知っている」ことをやり、腕全部を使って伸ばすというところをすっとばしてしまっている。結果を急ぐあまり、経過中のプロセスをすっ飛ばしてしまう傾向のことを、アレクサンダーテクニークでは、エンドゲイニングといって戒めるのだが、まさしく正しい一例がここで発生している。それどころか、そのあとで新しい指示を受けて泳ぎなおすたびに、ゴーグルを付け忘れて、3回もディエゴに注意されてしまう。アレクサンダー氏のいう「エンドゲイニングの確信犯」になってしまった。
 今日アレクサンダー氏の文章を読んでいて、{大人になると生活が単調化する傾向にあるが、多くが「知っている」と過信することで意識的な成長(自分に内在する可能性)をとめてしまうところからくる}という内容にいきあたる。新しいことを習うとか、知っているとおもっていることでもまた読んだり調べてみると、ぜんぜん忘れていたりわかっていなかったり、また前とは別の解釈が生まれていたりするのを発見するのは、うれしい驚きである。そうしてみると、「知らない」事にはおわりがなく、無限の可能性がある。私のおっちょこちょい(習慣的な誤リ)というチャレンジにも面白い意義がある。
 昔、ドン・ウィードという先生がマージョリー・バーストウを語って、毎日のようにパンを焼くのに、毎回同じレシピにもかかわらず、同じクック・ブックを参照していた逸話を聞き、「何回かやったら、覚えるのに。効率悪いじゃん」と言う第一印象だった私。17年が経過してやっと今その意味がわかったような気がしている。