餃子の功夫

北京にお帰りになる前日、秀茜さんが餃子の皮から作るのを実演してくださった。粉はオレゴン産の地粉、グルテンが多く「北京の粉よりよい」とほめられたものを使う。何もかも目分量・手分量でやるので、とにかくじっと観察しかない。粉に水を混ぜていくが、種がだいたいまとまったら、少しづつ水を足しながら、やわやわと手で混ぜる。まだだまがあるくらいに、でも赤ちゃんのほっぺぐらいのやわらかさにまとまったら、ちょっとこねてから、ぴったりふたをして一時間ねかす。その間に、具を作る。油をあっためて、八角を割っていれ、香りを出す。取り出したところに豚挽肉の油の多いとこをいれる。火からおろして、箸でぐるぐるとまぜる。必ず方向は一方に、そこにみじんぎりのねぎ、しょうが、香菜(茎も入れる)、白菜と混ぜ続け、かなりの量の塩を加える。これは水餃子にするからで、皮とゆで汁にまで塩を利かせるのである。紹興酒と、老抽(黒い色の中国のしょうゆ)をちょっといれる。
 寝かせておいた種は、いつの間にか、グルテンの作用でだまもなくなり、あかちゃんのおしりのよう。これをしばらくこねてから小分けにして、ひも状に伸ばし2センチくらいにぶつぶつと切り、細めの麺棒でのばしていく。左手で円形にまわしつつ、右手の麺棒でのばすのだが、その時中心部を厚めにするのである。私と、もう一人の生徒、ロレットが、見よう見まねで一枚をゆっくりやるうち、秀茜は、あっという間に20枚くらいのばしおわっている。皮は、市販の大きさだが、中心部は厚めでまわりはデリケートに薄い。真ん中に具を置いて何箇所か押して封じ、端っこを両手の指のまたに挟んできゅーっと前に押す。これがまたむつかしくて、彼女のは、丸っこくてしかも端っこは薄くきれいなフリルになってるのに、私たちのは扁平でいかにもおいしそうじゃない。先生は苦笑して、「それじゃ、おいしくないよ。練習するしかないけどねー」の一言である。これをやりながら、秀茜はニコニコして、「うちのお父さんは、餃子が得意なのよ。麺棒でリズムを取って、机をたたき、歌を歌いながら楽しくやるのよ。」といった。その机に背がとどかないうちから、みようみまねてきた、秀茜さんの餃子つくりの功夫。それを見守ってきたお父さんの姿。そして、お年越しのご馳走である餃子。あったかくて、おいしくて、すばらしい中国の文化がここにあった。
 さて、最後に、ゆで方。お湯をたっぷり沸かして、餃子をいれ、沸騰するたびに差し水を3回してしばらく煮てとりだす。黒酢で食べる。餃子でおなかが膨れたらゆで汁をいただく。餃子をこなすのに一番いいのは、そのゆで汁なんだそうだ。

ジルの誕生日

ジルさんとの出会いは、故高老師を通じてである。シアトル在住中の高老師の身の回りのこと、特に病院・銀行・ヴィサ・弁護士との関係を一切引き受けてお世話していた。なくなる前の二年間は、高老師と一緒に私とハリソンと、推手を練習した。亡くなってからは、遺産相続等で連日ハリソンと電話のミーティングが3月ほど続いた。そして今現在、彼女は、道教学院の理事長さんである。セラピストが本業の彼女は、いつ見てもどっしりと落ち着いて、いかにも頼りになりそう。そして実際たよれるひとなんである。地に足がついたひとである。先日書いたキャロルもそうだが、ジルもユダヤ人。口八丁・手八丁、そこはかとないユーモアのセンスで、難しい事態も切り抜けていく。シングル・マザーで、女でひとつで二人の子を育てながら、大学院を出てセラピストになり、その子供たちも結婚していまはシアトル室内楽ソサエティの理事と、道教学院の理事長として、私たちみんなのお世話役をかってくれている。ジルに誘われて、去年の七月とてもすばらしい、ラヴェル弦楽四重奏曲の演奏を聞いた後、翌朝だったが、筆ペンでその印象を描いた。その絵が今年、この室内楽ソサエティ25周年記念のポスターに使われることになり、縁は異な物、私たちの関係も一段と向上したようだ。60歳の誕生日祝いに招待されて、でかけていった。
 その朝は、例によってコラージュのプレゼントを作る。古いほうの辞書をひいてみると、JILLとは、SWEETHEARTとある。本人にぴったりの定義。親切な、心のやさしい人といった意味である。太極拳をやってるから、円のイメージ。シンコペーションの挿絵から、しだが生えている。というふうに貼り付けていく。
 会場のレストランは、息子さんの級友のシェフが最近オープンしたばかり。全て、ローカル有機栽培の素材で、ビストロ風料理。大皿に10種類ほどのいろんなおいしいものがあった。なかでも、たいのお刺身サラダにビ−ツを添えたのや、カリフラワーのチーズ焼き、大アサリのワインむしなど気に入った。前菜には、とれたてのぜんまいの酢の物風が珍しかった。しだ類のことをFURNというのだが、ちょうど絵の中にも入っていたので、うれしくなってしまった。女の人ばかり14人のパーティで、おしゃべりと食べるのに大忙し。たのしい宵はゆっくりとふけていった。

お寝町行きの電車

1960年代の祖父

一回りしたの、いとこのともちゃんと、夜の長電話。でいろんな話をするうち、夢のはなしになった。ともちゃんは、夢を見ないんだそうだ。私は、昼間でも時々想像力が暴走してしまう性格を子供の時から抱えていて、親や教師からはあきらめと若干の軽蔑をこめた調子で「夢見る夢子さん」とよばれていた。そのせいか、夢は必ず見る。ちょっと昼寝しても見る。私の夢は、総天然色であるので、かなり楽しい。私の映画好きも、「いつも夢を見ていたい」願望のあらわれかもしれない。最近はアンドレイ・タルコフスキーという、86年になくなったロシアの作家にはまっているのだが、かなり夢質の映像で、それはそれは、美しく深い。眠くなる映画のトップに位置しており、ながまわしで延々と続く間に、スーッと眠りに引き込まれてしまう。はっと目覚めると、夢の続きのような感じ。夢とおんなじで、「はなしは、どうだったんだっけ?」ということになる。
  ともちゃんは、夢を見たり時には覚えている私に、ちょっとびっくりしたみたいであった。「ひとつ夢のいいところは、なくなった人たちにあえることなの。」と、私。おじいちゃんやおばあちゃん、あやこおばちゃん。生きている時のまま、コタツを囲んで話したりしている。そのコタツも、部屋も、家自体もとっくに消滅しているというのに。亡くなった父も登場する。おかしいなあ、死んだはずなのに・・・とおもっているうちに目が覚める。というわけで、眠りは、タイムマシーンの様相を帯び始めてきたのよね・・・。
 そこでともちゃんから面白い話を聞いた。しばらく、おじいちゃんと同居していたともちゃんは、いつもおじいちゃん、7時になると寝るしたくを始めるのを不思議に思って、わけをたずねたところ、「ともちゃん、おじいちゃんは早くしたくしないと、お寝町行きの電車に乗り遅れるからね。」という返事。「おじいちゃん、お寝町って、どこにあるの?」と聞くと「お寝町はなあ、ドリームランドだよ。」
 ともちゃんは、いつもドリームランドにいけるなんていいなあ、とおもったそうだ。おじいちゃん(母方の祖父)は、昭和のはじめにモダンボーイで鳴らした人らしく、とってもハイカラなセンスを持っていた。鉄筋コンクリートを使った建築法を開拓した影の功労者であった。ハイカラでアメリカ好きのくせに、プラグマティズムというねじが外れていて、物質的には恵まれない生涯だった。そういう性格がいくらか隔世遺伝している、私。お寝町に行きっぱなしにならないよう、気をつけなければ・・・。

ピラミッド・ハウスとジョセフのこと

shokoza2006-04-14

ピラミッド・ハウスを始めて訪れたのは、1990年の終わり近くのこと。この家は、ハリソンの母の家だったのである。そして、ハリソンの母スター・フライヤー(彼女のスーフィーネーム)の恋人で、最期を看取ったのが、ピラミッドの製作者、ジョセフだった。10年間、病院にはいかず、乳がんと付き合いながら、スーフィズムチベット仏教を学び、セラピストとしてこの家で開業していた。そういう彼女を支えて、このふるい家のあちこちを、なおしたり建て増ししたりしてきたのが、親子ほど年が違うジョセフであった。がんの末期には、雪の日にも彼女を背負って、馬先生の診療所にかよっていたそうである。そういうわけで、なくなるときに、この家はジョセフが相続したのであった。
 はじめてあったときのジョセフは、ほとんど首がないくらい、肩があがっていた。大変な緊張のパターンである。こちらも引いてしまったが、向こうも人を寄せ付けない感じだった。そして次に彼にばったり会ったのは、キャシーの個人レッスンをうけているときだった。3年ほどの月日が経過していて、前のパターンはだいぶ和らぎ、「レッスンはどう?」なんてすれ違い様に気軽に言葉を交わした。しばらくして、ルシアがレッスンに来るようになる。ルシアとジョセフは、親友だったのだ。 
 あれから10年以上の時が流れた。去年の秋、ルシアのバースデイ・パーティーに呼ばれて、久しぶりにジョセフに会った。頭はだいぶ薄くなったが、首が全部ある。落ち着いてゆったりとした、存在感。彼は今、「聖なる音楽のアンサンブル」というグループをやっていて、CDをつくっているところ。ルシアも声で参加している。

 「このピラミッドの下で眠ると、すごい夢をみるんだって。一度つれてってあげるね。」と出会った頃のハリソンにいわれて、「うわー素敵」とおもったものだが、とうとう実現せず、そのことをルシアにはなしたら「いつでもとまりにきていいよ」といってくれた。が、他所のうちまでわざわざ、夢を見に行きたくないな。という風に自分が変わってしまっていた。

勘違いの不思議

感じというのが、当てにならないもの、というのは、アレクサンダー・テク二ークの原則のひとつで、レッスン中にはよく遭遇する現象である。教えていても、教わっていてもしょっちゅう起こる。初心者には特に、「ショック」といっていいくらいな、感覚の誤差がかんじられる。自分の使い方がよくなったとたん、「すごく、姿勢が悪くなったみたいな感じです。」なんて反応もしばしばある。先輩教師であるとき、「アレクサンダー・レッスンとは、みんなの前で恥をかき、それをうれしがること。」といった人がいたが、自分がグループレッスンにいくといまだにそういう体験をする。10数年前とのちがいは、それが平気であるのみならず、ほんとに楽しくなってきたことだ。自分としては、長足の進歩といえる。
 さて、昨晩の太極拳のクラスでのこと。みんなが、ハリソンの後ろについて型を練習しているとき、アルゼンチン出身のミュージシャンJ氏の姿がいやに目立った。なんだかすごく急いでいるみたい。気を発する動作も、内側の動きとつながっていないで、乱暴な感じ。それで、クラスの後、話してみる。そんな風に練習していると、気をうしなうばかりで、からだをいためるよと。あのね、型をとおすときは、先生にぴったりついて、ゆっくりまねするものなの、というと、「僕、真似してますよ。おさるさんみたいに、そっくりよ。」という答え。「だって、みんなのうちで、あなただけが、ハリソンより先をいっていたのよ。」と私。「これ、私が、この目でみましたよ。」かれは、ものすごくびっくりしていた。彼の感覚では、「ぴったりハリソンについて、やっていた」のである。「だって、後ろを振り返って、ハリソンの姿を見て、しっかり同じようにやってるかどうかいつもチェックしていたんだもの。」うーんそうか、なるほど、かれは、型の進行方向で、先生より少し前にいたのでそうなっちゃったのか。チェックしながらなので当然少し遅れる。それで次の動作をあせってやることになるが、彼の感覚では、チェックしながらしっかり学習していたのであった。太極拳の型は、流れる水のようにおこなうので、ついていくときも当然流れとしてついていかないと、いちいち突っかかってしまう。石がごろごろしている浅い流れのように。部分にこだわらず、全体に流れる気をもってついていくものなんだ、とあらためてわかった。細かい違いはだんだんわかってくるので、気にしないで、ふぁんそん、ふぁんそん。(放松)もうひとつには、J氏がとても情熱的頑張りやさんであること。道教学院を「ものすごく愛している」ので、ここで型をやると、どうしても「リキ」がはいってしまうんだそうだ。うん、わかるよ、その情熱もよくみえてたよ。でもそのエネルギーを緊張を通してでなく、放松を通して表現するのよ・・・・・。私の言葉は、感謝をもってうけとめてもらえたけれど、まあ、実現するまでの道のりは、長いんだろうなあ。

辞書の効用

アレクサンダー教師で詩人のキャロルの、70歳の誕生日に招かれた。夏時間に変わった、日曜日の午後のこと。午前中、プレゼントをつくる。10センチ四方の額に、コラージュ作品を入れて、額としても、コースターとしても使えるのにしよう。画用紙を額の中身にあわせて切り、さてなにを貼ろうかな。思いついたのは、10余年ばかり前ガレージセールで一ドルだった、ウェブスターの高校生用辞書、1911年初刊。学生用なので、かわいい挿絵がいっぱいついている。まずは、詩人、詩、を引いてみてその項を切り取り背景にする。グレイがかったクリーム色のデリケートな紙質、端っこが、薄紅に着色してある。これで自然なアクセントになる。
 次に、「キャロル」でひいてみた。意外なことに、いくつかの意味がでてきた。なぜ意外だったかというと、キャロルというのがかなり一般的な名前だからである。そうか、どんな名前でも意味があるんだ。当たり前のことなのに、考えても見なかった。当たり前すぎて、考えがおよばなかった、というべきか。
 キャロルというと、クリスマス・キャロルというように、「歌でお祝いする」cereblate with songsという意味があった。これだ!彼女は、最近歌のレッスンにいっている。歌うことにコンプレックスがあるらしい彼女が、キャシーの教室で声を使うときの自分の使い方を習う姿にはこころうたれるもの。早速、赤ペンで二重線をひく。キャロルの横に、プロファイル、女の横顔が影絵になったものを貼り付ける。影絵の下に小さくprofileときれいな活字がはいっている。画面の下には、スィートピーがつるを伸ばしている絵を貼る。薄い紙なので、「詩」とは何かという意味が透き通って見える。
 出来上がりは、われながら、きれいでうれしくなってしまった。彼女もよろこんで、私の両手をぎゅっと握ってくれた。さらに、お誕生日会場には3人もほかのキャロルが来ていて、辞書にもこんな効用があったのね!私もぜひ使わせてもらうわ、というわけだった。

ヘレンさんに捧げる黄色い薔薇

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きれいでしょう?2月の第三月曜日(プレジデント・デイ)に薔薇の剪定をすると、夏によく咲くのよ。と教えてくれたのは、ヘレンさんだった。去年の夏には、本当に次々によく咲いてくれたのを写真に撮っておいたのがこれ。また、この色がよく似合い、セーターやレインコートや、スカーフと学校に着てきていたのをおもいだす。今日学校で、ヘレンと一緒に中国にいった、女の人たちが、ラッパ水仙をいっぱい花瓶にいけて祭壇に飾っていった。これって、ヘレンの色よねえ。と、いいながら。病院での夜中の付き添いをしたのは、ヘレンが長年連れ添った夫でも、ノーベル賞を受賞した長男でもその妻でもない。もちろん遠くに住む娘たちでもない、このクラスメートの女のひとたちだった。最後にお別れに行ったとき、気丈な彼女が、泣くのを見たのは、「太極拳のお友達と、会えなくなるのが一番つらい。」といった、それが、最初で最後だった。
 4月15日、復活祭の前日、TSIでヘレンさんのメモリアルが行われる予定である。