勘違いの不思議

感じというのが、当てにならないもの、というのは、アレクサンダー・テク二ークの原則のひとつで、レッスン中にはよく遭遇する現象である。教えていても、教わっていてもしょっちゅう起こる。初心者には特に、「ショック」といっていいくらいな、感覚の誤差がかんじられる。自分の使い方がよくなったとたん、「すごく、姿勢が悪くなったみたいな感じです。」なんて反応もしばしばある。先輩教師であるとき、「アレクサンダー・レッスンとは、みんなの前で恥をかき、それをうれしがること。」といった人がいたが、自分がグループレッスンにいくといまだにそういう体験をする。10数年前とのちがいは、それが平気であるのみならず、ほんとに楽しくなってきたことだ。自分としては、長足の進歩といえる。
 さて、昨晩の太極拳のクラスでのこと。みんなが、ハリソンの後ろについて型を練習しているとき、アルゼンチン出身のミュージシャンJ氏の姿がいやに目立った。なんだかすごく急いでいるみたい。気を発する動作も、内側の動きとつながっていないで、乱暴な感じ。それで、クラスの後、話してみる。そんな風に練習していると、気をうしなうばかりで、からだをいためるよと。あのね、型をとおすときは、先生にぴったりついて、ゆっくりまねするものなの、というと、「僕、真似してますよ。おさるさんみたいに、そっくりよ。」という答え。「だって、みんなのうちで、あなただけが、ハリソンより先をいっていたのよ。」と私。「これ、私が、この目でみましたよ。」かれは、ものすごくびっくりしていた。彼の感覚では、「ぴったりハリソンについて、やっていた」のである。「だって、後ろを振り返って、ハリソンの姿を見て、しっかり同じようにやってるかどうかいつもチェックしていたんだもの。」うーんそうか、なるほど、かれは、型の進行方向で、先生より少し前にいたのでそうなっちゃったのか。チェックしながらなので当然少し遅れる。それで次の動作をあせってやることになるが、彼の感覚では、チェックしながらしっかり学習していたのであった。太極拳の型は、流れる水のようにおこなうので、ついていくときも当然流れとしてついていかないと、いちいち突っかかってしまう。石がごろごろしている浅い流れのように。部分にこだわらず、全体に流れる気をもってついていくものなんだ、とあらためてわかった。細かい違いはだんだんわかってくるので、気にしないで、ふぁんそん、ふぁんそん。(放松)もうひとつには、J氏がとても情熱的頑張りやさんであること。道教学院を「ものすごく愛している」ので、ここで型をやると、どうしても「リキ」がはいってしまうんだそうだ。うん、わかるよ、その情熱もよくみえてたよ。でもそのエネルギーを緊張を通してでなく、放松を通して表現するのよ・・・・・。私の言葉は、感謝をもってうけとめてもらえたけれど、まあ、実現するまでの道のりは、長いんだろうなあ。