信じて飛び込めるということ

大すきな映画監督の一人、パトリス・ルコントの『橋の上の少女』(邦題がこうか知らない)を見た。ナイフを投げる芸人の男が、人生に悲観して身を投げようとしている少女を助ける。男は、的になるきれいな女を捜していたので、どうせ捨てた命だろう、的になって見なさい。とうまく誘って、仕事を始める。女が死の恐怖、傷つく恐怖を投げ捨てたとたん、難しい技もうまくいくし、それに、不運ばかりかこっていたのが、急にツキが回ってくる。ドラマでは、その時点で、二人の間にテレパシックな関係がうまれてしまう。キスもしたことがない二人の間に、だ。(それどころか、女はセックス依存症で、ちょっといい男と見れば、片っ端から寝てしまう。)この二人の間では、生と死のぎりぎりに、賭けるという行為がもっとも親密な関係をもたらしたわけで。その人の前に、命を投げ出して、自分が消えてしまう・・・・でもね、やっぱり日常の意識が邪魔をして、中々、そんな風に考えられないし、信じることも出来ないのよ。底のほうでは、信じているし、信じたいのに、難しいの。こっちの男の方が、お金もってそうだとかいって、迷って、わかれちゃう。映画を見たほうがいいから、これ以上かかないけど。リレーションシップで、相手をどれだけ、信頼できるかって言うのは、永遠のテーマなので、又この映画を見て考えさせられました。サーカスの踊り子や、小人,ぐにゃぐにゃからだがまがる芸人と少女のラブシーンとか、面白いシーンが、白黒の美しい画面で展開、すてきなのよー。
 
これを書いた前日、クレスト・シネマで、『テレグラフヒルの野生のオウム』という、最近の自主制作ドキュメンタリーを見た。シアトルから、シスコへ、60年代に流れてきた元ミュージシャン志望のヒッピーの男の物語。定職についたことはなく、兎に角、カフカの断食芸人じゃないけど、「やりたいことがわからない」ので、フリーターのまま50の声を聴く。コイトタワーのすぐしたの、ストロベリー・グァバなんかの生い茂る所で、自生するオウムたちの餌付けをしたのがきっかけになって、彼らを観察し、交流し、保護するのが、天職となった。オウムたちに、名前をつけ、彼ら一人一人の物語を記録する。中には、家から出たがらない、自然恐怖症のオウムもいる。この子は、ギターで歌を聞かせると、首を振って、踊る。(名前は、ミンガス。)大体80羽ぐらいの群れだが、天敵は、鷹。襲われると、群れは、2種類の行動をする。ばらばらに飛び散って鷹を惑乱する、か一団となって、鷹の後ろを飛ぶ。鷹は普通正面から、獲物を襲うので、後ろからこられると、混乱してしまうのだそうだ。等等、大変面白い観察記が続く。印象に残ったのは、病気だったのを拾って、最後まで面倒を見た一羽のこと。「何もかも、自分にまかせきっている存在を、愛さずにいられるわけがない。そしてあの子は死ぬ直前に、深い感謝の気持ちを表してくれていた。そういうヴァイブだった。そして、自分が死ぬことを知っていたから、僕が、押しつぶしてはいけないと思ってベッドから床にあの子を下ろしたとき、うらむような悲しい気持ちがあの子からきた.でもそれに気がつけなかったんだ。翌朝あの子はスチームの下で、冷たくなっていた。温かみを求めて、そこまではいずっていったんだ。本当は、僕の隣で安心して死んでいきたかったのに。それだけが心残りなんだよ、あの子の気持ちをわかってやれなかったのが。」彼とオウムたちとの生活にも終わりが来て、家賃なしで住み慣れた家を去るときの、言葉だ。彼女いない暦と年齢がほぼ一致していたらしく、「彼女?出来たら髪を切るよ」と冗談のようにいっていたのが、ラストシーンでじょきじょき。なんとこの映画の、女性監督とつがいになったのであった。素晴らしい、ハッピー・エンド。