私の小さなアトリエ

今は昔、12年ぐらい前に、H氏が、裏庭の樅の木の側に建ててくれた、小さなアトリエ。英語ではSTUDIOと呼ぶが、このフランス語の名前がなんとも言えなく好きだ。小さくても、窓が三方にあり、時々リスや、猫やの、通行とか裏庭の様子が見渡せる。12年の間には、ほかの仕事が忙しかったり、単に気が向かなかったりして、実際にそこに居たのは、半分にも満たなかったのではないかとおもわれる。10年ほど前に、西安から来て一月ほど階下に滞在して、TAOIST STUDIES INSTITUTEのために、『三清像』という道教の三体の神様を彫ってくれたひとがいた。張宝林という方で、弟を頼ってシアトルに来ていて、この三兄弟で力をあわせれば、道教寺院が建ってしまうそうなのであった。何しろお金をかけないので、倒れた木をもらってきて、その三本の丸太から、三清像を掘り出してしまった。その仕事振りたるや、朝から、晩まで木屑だらけで、やっつけていた。また、米粒に字を書いたり、胡桃一個に、楼閣を彫りこんだり、超人的にこまかいことも、彼の得意技のひとつであった。
 ある日宝林さんは、私のスケッチ・ブックや、キャンバスを見て、一方なかなか絵を描かない本人と見比べて、なぜ、絵を描かないんだ?と不思議そうに、いった。いい絵じゃないか、かけばいいのに。と、ほめつつ、励ましてくれた.そんな、すごい技のある宝林さんも、シアトルでは食えず、宝石加工の仕事をするためロス・アンジェルスへと去って行った。秦の時代の武人のような立派な体格で、一皮目の奥でじっと見て、はっきりものをいうひとだった。彼のことを考えていて、ふと、ピカソのことをおもった。気力も体力も、私の何倍もある人々。その私たるや、子供の時から病弱で,特に母親は、よくあたるので評判のトランプ占いのおじさんに、この子は、絵の道にいったらきっと病気になりますといわれて
すっかり間に受け、いつもその話を聞いて育った。というわけなので、私が、アトリエに行かなくていいわけは、行かなくてはいけないわけより、ずいぶん多い。それでも、このところちょくちょく、行くようになった。かくこともあるし、ただ、すわってながめていたりするだけのこともある。ヤン・ガルバレクの『夢に捧ぐ』というCDを聴きながら、筆を動かす。疲れたなと感じたら、止める。そんなかんじで・・・
 ピカソってそんなに好きではないんだけど、SURVIVING PICCASO という映画を見た時、(アンソニー・ホプキンスがやっているイギリス訛りの変なピカソ)私は回教徒のように、アトリエにはいる前に、ドアの外で靴を脱ぐ。といっていたのが強く印象に残った。私もそんな、心がけだけでもあやかりたいと思い、すりふとショップでもとめた、小さい金縁の鏡と、9人の天使に支えられて昇天するマリアさまの絵を飾った。





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