自分にいい気、と自分に悪い気

って、あるんですかー?と言う問いに不意をつかれたおもいがした。てのひらを丹田においてひたすら気を送り、其の気持ちよさを味わう、というのを教えているときのこと。自分が、自分に送る気は、ぜーんぶいい気と信じて疑った事の無かった私なので、意外だったのだ。調子の悪いときの自分からは、悪い気しか出てないんじゃないか、そんな気を自分にむけるのは、どんなものか、というのは、理解できる。生来わがままな私は、調子が悪いと人に当たったりして発散し、自分に向ける気は、したがって調子の悪さをふくんでいなかったのかもしれないな。他人には悪い気を向けても自分にはいい気で接していたかも、などともおもわれる。よく、「大陸的」と買って言われるのは其のせいかもしれないぞ。でもそういうのも昔の自分で、長年の間、勉強してきたのは、調子の悪さをどう転換していくか、の方法だったなあとおもうのである。他人に向けて発散するのは、初歩的というか、それ以前の習慣的・無意識の健康法で、自分にはいいがいわば公害のようなものである。其れを、紙に向けて、発散していくのが、描画や、日記で、コレは、毎日一定時間やっている意識的な健康法のひとつである。むしゃくしゃして、訳はわからないまま画いていて、終わったらすっきりしていたという事も、以前には多かった。公害になるよりはずっといいが、場所やモノが要ると言う点で手間が掛かる。
 アレクサンダーや、太極拳を学んでいく上でならったのは、刺激に対する習慣的の反応を変えていくということだった。外からの刺激に対して、向こうに気をとられず、先ず自分に注意をむけること。意識の光を当てる事によって、自分の癖に気づく。すると反応の仕方もかわってくる。其のプロセスは瞬く間に、おこる。
 わるい気はそとからくるので、コレを自分の中に取り込まず、処理してしまい、自分に向ける気は、みーんないい気と信じて疑わない今の私には、こういう根拠があったんだな。とコレをかきながらわかってきた。